卒業後は神戸市の
山陽電気鉄道に入社。会社の学歴を重視する方針に不満を感じ3年程で退職。退職後は地元岡山県に戻り久米南町役場の職員に就くが、3ヶ月で辞表を出して退職。辞表を出したその足で大阪に出てビア・ホールで
アルバイトを始める。その後は
パチンコ店の店員や
キャバレーのボーイ等の
水商売を中心に約30種類以上の職を転々とした。この経験が
漫画を描く上で大いに参考になったという。本人曰く一番楽だった仕事は公務員で、一番辛かった仕事はパチンコ店の店員だったとのことである。当時のパチンコ店内は大音量のBGMが流れタバコを吸う客が多く店内の空気が凄く悪かったため、パチンコ店の店員はかなり大変だったと語っていた。
1970年に「
屋台」が
ビッグコミック新人賞佳作に入選。佳作賞金として7万円を手にするも、連載等の声が全くかからなかったため、佳作に入選した「
屋台」を持ってデザイン会社に売り込みをして就職する。3年間勤めた後に、独立してデザイン会社「青木デザイン」を起業する。起業当初は一人で全ての業務を行っていたが、事業拡大のために従業員を雇うようになる。経営は順調に思えたが、数々の取引先から支払いを
「もう少し待ってくれ」と言われ続け、資金繰りが苦しくなる。そんな状況にも関わらず、青木の
「他者に金銭的迷惑をかけない」という信条により、従業員の給料や自社からの支払いは一度も遅れる事なくしっかりとこなしていた。次第に状況が悪化して借金を背負い倒産。ここでの経験がその後の作品を描く上で大いに参考になったという。この期間も漫画を描き続け、
実業之日本社を中心に投稿を続けるが、掲載されるには至らなかった。1989年に「
50億円の約束手形」で
アフタヌーン四季賞佳作に入選、
1990年に「彼岸と此岸の間で」で準入選を受賞し、同年に代表作の「
ナニワ金融道」(ナニ金)(
モーニング)で漫画家として44歳でデビューした、遅咲きの
漫画家であった。
自ら
マルクス主義者を標榜し、現代社会への批判が常に著作の根底にあった。そのため
右翼団体によって攻撃の対象とされていた。
日本共産党の演説会に弁士として招かれたことがあり、講演会や
赤旗紙上に晩年までたびたび出ていた(が、あまりに教条的なマルクス主義論を壇上でぶったため、二度とお呼びが掛からなかったという逸話もある)。
新左翼系の
都政を革新する会の支持者名簿に名を連ねることもあったが、当人は「『目的のためには手段を選ばず』ではなく、目的達成のためには手段は選ばなくてはならない」と冒険的な武力闘争を否定するなど、
過激派的路線とは一線を画していた。また、マルクスとともに
ドストエフスキーに傾倒しており、著書ではドストエフスキーの作品についてしばしば言及している。