1973年『
漫画アクション』にてデビュー。代表作に『
童夢』『
AKIRA』など。ペンタッチに頼らない均一な線による緻密な描き込み、複雑な
パースを持つ画面構成などそれまでの日本の漫画にはなかった作風で、80年代以降の漫画界に大きな影響を与えた。
1988年、自作を元に自ら制作したアニメーション映画『AKIRA』は海外でも大きな反響を呼び、「ジャパニメーション」と呼ばれる日本アニメの海外進出のさきがけとなった
[『BSマンガ夜話 ニューウェーブセレクション』カンゼン、2004年、9頁]。近年は主に映画監督として活動している。
中学時代に漫画家を志すも、高校時代は映画漬けの日々を送り一時漫画から離れる
[真崎守「インタビュー 大友克洋」『ぱふ』1979年7月号、雑草社、20頁]。当時は映画を作りたいと思っていたが、一人立ちを考えて漫画を描き始め、1971年末に処女作『マッチ売りの少女』を執筆。『
COM』や『
りぼん』に数度投稿を行い
[米澤嘉博「マンガからのエクソダス ―大友克洋についての覚書15項」『ユリイカ』1988年8月臨時増刊号、青土社、153頁]、1973年、
プロスペル・メリメ『マテオ・ファルコーネ』を原作とする『銃声』で『
漫画アクション』にてデビュー、以後『漫画アクション』を中心に短編作品を発表していく。
1979年、初の単行本となる自選作品集『ショートピース』刊行。このころより『
マンガ奇想天外』『コミックアゲイン』などのSF雑誌・マイナー雑誌に寄稿し
ニューウェーブの作家と目されるようになる。1980年、『アクションデラックス』に『童夢』(-1981年)、『漫画アクション』に『
気分はもう戦争』(-1981年、原作:
矢作俊彦)を連載。
1982年、『
週刊ヤングマガジン』にて『
AKIRA』(-1993年)の連載を開始し、この作品で一気にメジャー作家となる。
大友の作品が一般的に知られるようになるのは初作品集『ショートピース』が刊行され「ニューウェーブ」作家とも交流を持つようになる1979年頃であるが、76年-78年頃にはすでに作風を確立し一部の漫画読者からは知られた存在になっていた
[村上知彦、高取英、米澤嘉博『マンガ伝 ―「巨人の星」から「美味しんぼ」まで』平凡社、1987年、80頁-81頁]。大友の初期の作品は
アメリカン・ニューシネマの影響が強く、
ロックや
ジャズ、
ドラッグといった70年代の文化を背景とした日常を淡々と描いたものが多かった
[前掲 米澤嘉博「マンガからのエクソダス」『ユリイカ』1988年8月臨時増刊号、150頁-151頁]。また緻密に描き込まれているにも関わらず、余白を大胆に取ることで白っぽい画面が作られており、リアルでありながら
劇画のような泥臭さや過剰さのない乾いた画風が注目された
[。さらに初期の大友作品の大きな特徴は、日本人のキャラクターをまったく美化せずに、見たままアジア人的な容姿(細い目、低い鼻、短い足、小さい乳房)で描いたことであり、これは男はかっこよく、女はかわいらしく描くのが当然とされていた漫画界において異例のことであった][夏目房之介『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』筑摩書房、239頁-240頁]。このような大友のスタイルの新鮮さは漫画志望者や既成の漫画家に大きな影響を与え、『ショートピース』刊行前後より模倣者が数多く出現、その影響は吉田秋生などの少女漫画家にも及んだ[前掲 米澤嘉博「マンガからのエクソダス」『ユリイカ』1988年8月臨時増刊号、157頁-158頁]。女性キャラクターが可愛くないのは本人も自覚しており、「そういった絵柄も簡単に描けるが、描く理由もない、描かないと生き残れないなら描く」と話している[本人のインタビュー(「AKIRA PRODUCTION REPORT」より)]。