造船・鉄鋼・パルプ・機械金属などを中心とした臨海工業都市として発展している。また、
大和ミュージアム・
てつのくじら館など軍事に関する博物館の設立が相次いでおり、近現代史を学べる観光地としても注目される一方、被爆地である広島市などの
平和団体からは、これらの施設をかつての
軍国主義・
侵略戦争を美化する一連の流れとして危惧する声も少なからずある。(「大和ミュージアム 1年目の航跡 <中> 賛否両論 展示の判断 冷静な目で」『中国新聞』 (2006年4月26日 朝刊)ほか)
明治時代には第二
海軍区鎮守府(
呉鎮守府、通称「呉鎮」)が開庁された。海軍施設の建設用地の確保のために、古い呉町の住民は立ち退きを余儀なくされ、古くからの町は消滅した。音戸・倉橋には、軍事拠点が置かれ、漁業が制限されたため、食品加工業などへの転業を強いられた。戦前は
呉海軍工廠において「
戦艦大和」などが建造され、東洋一の軍港・日本一の工廠として知られていた。呉海軍工廠は造船技術の卓越は言うまでもなく、早くから
出雲安来の和鋼に着目し、特殊鋼として応用するなどの先端的な軍需鉄鋼研究の拠点でもあった。このため、太平洋戦争末期には
呉軍港空襲において米軍の空襲を受け、大きな損害を受けている。鉄鋼関係の技術はJFEや日新製鋼などの大手鉄鋼メーカに引き継がれ、また軍事拠点の流れとしては
護衛艦隊、
潜水艦隊や練習艦などが所属する海上自衛隊
呉基地があり、その敷地内には海上自衛隊
呉地方総監部が設置されている。呉で勤務している海上自衛隊員は総員6,600名に達する。旧海軍呉鎮庁舎は呉地方総監部第一庁舎として使用され、日曜日には一般公開されている。