昭和初期の
昭和金融恐慌下、
三井・
三菱・
住友・
安田の
財閥系銀行がシェアを伸ばす中で、前述3行も他の小銀行併合などにより、これらに次ぐ有力銀行としての地位を固めていが、営業地盤を同じくする3行の競争は望ましくないとして、合併へ進んだ。新銀行は本店を大阪市東区の旧鴻池銀行本店に置き、頭取には
日銀出身の
中根貞彦が就任。設立直後の年末の第1回決算で預金高は10億円を超え、日本の普通銀行のトップに立った。しかし、その後の、大阪の経済的地盤の低下や、在京銀行による中小銀行併合等により、預金ランキングを落としていく。
終戦直前、第2代頭取に日銀出身の
岡野清豪が就任。戦後、
GHQ(連合国軍総司令部)は当初、同行を財閥銀行と同列に扱い、
制限会社の指定を検討したが、非財閥系・
ピープルズバンクであるという訴えをねばり強く続けた。事実、三和銀行は大阪・船場の繊維産業への融資を中心にしていたため、戦時中の軍需融資も少なく、指定金融機関の軍需融資先数でも最も多い
日本興業銀行の146社に対し三和銀行は64社にとどまっていた。このため、制限会社指定の決定は取り消された。