条約の文言には「ヘンリーはシャルル6世の娘
キャサリンと結婚し、シャルル6世の死に際して王位は彼らの子に継承され、2つの王国を統合する」とあり、これは実質的に王位継承のラインからシャルル6世の男子を外すことを意味し、多くのフランス貴族によって反対された。とはいえ、ヘンリー6世は幼いため、フランス王としての正式な
戴冠式を行えなかった。実はここに、追い詰められたシャルル7世側の形勢逆転の可能性も存在していたのである。
1429年4月、ジャンヌは「ラ・ピュセル」(la Pucelle:現代訳では「少女」の意味である、当時の語彙では「女中」「メイド」程度の意味)と呼ばれることになり、
ロワール川沿いの都市
オルレアンに向けて出発した。当時オルレアンはイングランド軍に包囲されていた。ジャンヌはオルレアンの総司令官であった
「オルレアンの私生児」ジャン(後のデュノワ伯)、後に熱心な支持者となるアランソン公、オルレアンの隊長「
ラ・イール」、
ジル・ド・レイ(一説には
シャルル・ペローの『
青ひげ』のモデルとも言われる)たちとともに、イングランド軍と戦った。ジャンヌは勇猛果敢に突撃したが、左肩に矢を受けた。命に別状はない外傷だったが、このときは未だ10代後半の女であるに過ぎず、不安のあまり泣き出す始末だった。ジャンヌは人を殺したくないという理由から、旗持ちを好んでいたが、仲間の兵隊たちを鼓舞する役目を堂々と果たし、戦闘においては進んで危険な突撃を敢行した。むろん、ジャンヌの鼓舞により、オルレアンの兵隊たちの士気はいやがうえにもあがった。翌月、イングランド軍は撤退しオルレアンは7ヶ月以上にわたる包囲網から解放された。